器が変わると
くらしも変わる

碗も湯呑もお皿もカップも、
お気に入りの器に変えるだけで
暮らしをちょっと素敵に彩ります。
私たちがお届けしたいのはいつもの暮らしに
プラスアルファの価値を生み出すウツワ。
より多くの方に手に取ってもらいたいという想いから、
伝統を守りつつも現代風のデザインも取り入れるなど、
改善を重ねています。

また、贈答用としても多くのお客様に
ご利用いただいております。
日頃の感謝を伝えるちょっとした贈り物から
結婚式の引き出物まで、
幅広い場面で喜ばれると好評です。
「見て」「使って」「贈って」使い手が自由に楽しめる、
そんな焼き物との出会いをお届けいたします。

窯元紹介

不動窯は、織部や志野・黄瀬戸に代表される美濃焼400年の伝統を継承しつつ、暮らしのウツワを中心に、モダンで心温まるオリジナルのやきもの作りをしています。
不動窯のある駄知という地域は美濃焼の主要産地のひとつで、付近には製陶業を営む会社や窯元が100近くあり、地域全体がやきもので成り立っています。

徳利のみ、茶碗のみなど、得意なものにこだわって生産する窯も多い中、不動窯ではお客様のご要望に応え、様々な種類の器を作ってきました。
その結果、器の種類は数千を超え、「日常の器全てが揃う」と言っていただけるほど、豊富な品揃えも不動窯の特徴の一つとなりました。

しかし、作れるならどんな器でも良いというわけではありません。
やきものは使ってこそ、その真価を発揮します。
少しでも日常生活の中で使っていただけるよう工夫を凝らし、伝統の素材を重視しながら、現代の生活に合うデザインの器を作っています。

手作業での創作

生活の変化に伴い、家族が揃って食事をしたり、人を招いて食事をふるまったりする機会も減っています。そんな時代の中で消耗品ではない、やきものの器をずっと大切に使ってほしいという願いから、不動窯では機械化を最低限に留め、手作業を大切に残すことを心掛けています。
機械で作られた均質なものではなく「一つ一つ手作りで、少し違っても味のある物がモノづくりの基本」だと考えています。
創業当時からのその姿勢を崩すことなく、土から器のカタチを作り出す作業、マグの取っ手やポットの口や持ち手を取り付ける作業、素焼き後の絵付け作業、釉薬を丁寧にかける作業など、私たち職人の手が入ることで、豊かな表情が器に浮かび上がります。
美濃焼は日常雑器として発展してきた歴史があります。これからも食に寄り添う器を目指し、手作業を残すことで包容力のある美しい表情を仕立て上げていきます。

窯元の歴史

不動窯は岐阜県土岐市駄知町で、創業約50年を迎えました。現在の当主、伊藤照明は二代目当主です。
明治初期より親族が駄知町内で製陶業を営み、輸出品も手掛けていました。昭和40年頃には工場が手狭になり、別の土地へ移転。その工場跡地に祖母が工房を設けたのが不動窯の始まりでした。当時の工房では宿と食事を提供し、若手の陶芸家を育成しており、多い時には従業員以外に5名ほどの若い陶芸家たちが住み込みで日夜研鑽を積んでいたこともありました。
その後、二代目伊藤照明が後を継ぎ、現在に至っております。
創業当時の想いを引継ぎ、今後も伝統を守りながらも現代の生活に溶け込む器づくりに挑戦し続けます。

美濃焼について

美濃焼とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市にまたがる東美濃地方で製作される陶磁器の総称です。東濃地方は日本最大の陶磁器生産拠点で、特に不動窯のある土岐市は陶磁器の生産量日本一を誇っており、60%以上を生産しています。

安土桃山時代から江戸時代にかけて「織部」「黄瀬戸」「瀬戸黒」「志野」など、現在も美濃焼を代表する独創的なやきものを生み出し、茶道の普及と共に全国に出荷されるようになりました。現在は「特徴がないことが特徴」と言われるほど、多様な色や形の焼き物が生産されており、私たちの生活の中に自然に溶け込んでいます。

美濃焼の歴史

美濃焼の歴史は古く、1300年以上さかのぼります。初めは朝鮮から技術が伝わり、須恵器を焼いていました。

山茶碗
織部

【平安時代】およそ1150年前

平安時代になると、須恵器から灰釉を刷毛塗りした白瓷(しらし)というやきものが焼かれるようになり、北海道を除く全国で使用されていました。

【鎌倉・室町時代】およそ450~800年前

平安時代の終わりから、灰釉を塗ったものから無釉のやきものがつくられました。大量に焼かれたため、 一般の人も使用していました。山にある窯跡に茶碗の破片がたくさん散らばっていたことから、「山茶碗=山にある茶碗」と呼ばれるようになりました。

【室町後期~桃山時代】およそ400~500年前

500年ぐらい前になると、灰釉・鉄釉・銅緑釉などが焼かれるようになり、400年ぐらい前からは「黄瀬戸」「瀬戸黒」「志野」など現在も美濃焼を代表する桃山陶器が焼かれました。1610年頃になると、従来の窯から山の斜面を利用した階段式の連房式登窯が築かれ、武将であり茶人でもあった古田織部の好みのやきものが効率よく焼かれるようになりました。

【江戸時代以降】

日常生活に使われる食器が大量生産されるようになり、幕末には白くて硬い磁器も焼き始められ、その後、生産性も上がり全国に流通するようになりました。
また、昭和5年、荒川豊蔵氏の志野陶片の発見により、それまで瀬戸で焼かれていたと思われていた桃山陶が美濃で焼かれていたことが確認されました。それ以後、桃山陶の「織部」「志野」「黄瀬戸」が再現され生産されるようになり、今では全国の陶磁器の60%以上を生産しています。

織部について

鮮やかな緑釉と美しい佇まいが食卓を彩ります。

桃山時代を代表する美濃出身の武将であり茶人である古田織部。信長、秀吉という天下人に仕えた彼は、千利休の高弟として独自の茶道を提案し、うつわや茶道具に新たな価値観を生み出しました。その新たな価値観、古田織部が好んだということから「織部」の名が付きました。
既成概念にとらわれない、斬新で新しい美意識を追求した新しいうつわは、桃山という時代の象徴でした。ひずんだフォルム、鮮やかな色彩、その独創的なうつわを生んだ「へうげもの」の美的感覚を貫く自由闊達な桃山の時代精神は、時(とき)を経てもその輝きを失わず、今日の美濃焼に受け継がれています。

※厳密には、釉薬・施文・胎土などの違いで、青織部・黒織部・志野織部・鳴海織部・赤織部・総織部・弥七田織部・美濃伊賀・美濃唐津などに区分されます。
現在、織部と呼ばれるものは、いわゆる「青織部」や「総織部」を指しています。

天目について

鉄を多く含んだ黒色の釉薬全般を「天目釉」といいます。天目とは中国浙江省の地名で、この地域で焼かれた黒っぽい焼き物(主に抹茶茶碗)を指します。

不動窯の天目は、外側の素地は無釉、内側は表情豊かな深い黒、直線と曲線の融合がもたらす端正なフォルムが特徴的です。ふところ深く包容力のあるうつわで、その表情は日本の食卓によく馴染み、食材を引き立てます。
奥行きのある佇まいで、料理と器のセッションを愉しんでください。

contact

お気軽にお問い合わせ下さい

0572-59-5228

〒509-5401 岐阜県土岐市駄知町2457

営業時間 8:30~17:00

定休日 毎週日曜日・一部の土曜日他

不動窯

〒509-5401 岐阜県土岐市駄知町2457

0572-59-5228

営業時間 8:30~17:00
定休日  毎週日曜日・一部の土曜日他

(c) 2008-2020 Fudogama